痛みにはいろいろな種類があります。それは無力感であるとか、罪悪感であるとか、恥ずかしさとか・・・。痛みを引き受けることはそれほど簡単なことではありません。受け止めること良いことだとわかっていても、痛みを感じることは当然のように苦痛を伴います。目の前の出来事に対してあまり何もできないんだよなとは、私たちのこころは受け容れがたいと感じるようです。痛みを感じるくらいなら、自分が悪いからとか、他の何かが邪魔しているからとか、他の目的に一生懸命取り組んだりするとかいった道の方が選びやすいようです。
日々の生活には大きな力があります。繰り返すことや量が多いことは、それだけでその人の考えや行動に大きな影響を与えます。日々の生活を送っていくことは、それがどのように周りからあるいは過去や未来の自分からきつい状況だと思われたとしても、そのときはその状況に慣れて行かざるを得ません。私たちのヒトとしての高い能力は、それが周りから特殊なことと見られても、繰り返されることは「普通のこと」としてとらえるようになります。
危機の時になると、意外なほどに近くにいた人たちはそのサインに気つくことが難しくなっています。近くにいた人たちにとって、その危険はいつもそこにあった物です。ラクダの上の最後の一本のわらが、たまたま今日だった。通り過ぎる人たちにとってラクダの上の荷物は明らかに驚くべき高さになっていたとしても、5年10年隣で過ごしてきたヒトにとっては、昨日と今日の差はわら一本にしか見えません。
現状に敏感になることはやはりなかなか難しいことではあります。大切な人の荷物を担うことは難しいことですが、自分のこころを痛みに対して閉ざすことなく、積極的に自分の問題を担っていくことはできることです。自分の痛みを大切な人にぶつけるのではなく、抱えていくことができるようになること。そのことが結果的には大切な人の危機のサインに気がつく助けになります。
(2008年10月15日)