言葉で理解し表現できることと、からだが感じていることの間にはギャップがあります。
「見る」という感覚が強くて、視覚的な理解や表現が多い人。「考える力」が強く理論的に言葉で世界をとらえたり説明したりする人。身体感覚が強く、良いこと悪いことを身体の感覚として感じ表現する人。例えば「寂しさ」というようなモノも、寂しいと口に出すことから何となく世界の色がはっきりとしないなど、自分の普段使っている感覚として感じ表現します。同じ様な意味を表そうとしても、人それぞれに感じ方と表現の仕方があるようです。
なぜ自分はこうなったのか、今のつらさが一体どこから来ているのか、そしてどんなふうに行動をしたり考えたりしたらこの辛い状況から抜けられるのかを知っている。いろいろなことを筋道立てて考えられるけれども、なぜかいざとなると身体が動かない。人の心はそれほど簡単にすべて説明できるモノではないのですから、あまりにも綺麗に物事が説明されることは注意しなければならないことです。
それではどこに注意をしたらよいのかと考えてみると、身体の声に耳を傾けることは決して無駄なことではありません。動きにくいと感じた時にきちんと休めることは大切な人の能力です。一時的に身体をだまして働いたり学校に通ったり日常生活を今まで通り行うことはできますが、長距離走と同じように自分に合わないスピードで長く走り続けてしまえばどこかに必ず無理が出てきます。
理想はもちろん頭と身体を一致させることでしょうが、忙しい時や困難を抱えている時などは、特に身体が何かを訴えていないか、耳を澄ませてみる余裕が必要なのかも知れません。あまりにもきちんと説明できているんだけれども身体が言うことを聞かない時には、今まで苦手で使ってこなかった感覚と無視をしてきた体の部分からのぎりぎりの警告かも知れないのです。
現実生活のつらさは確かにきついものです。経験せずに済めばそれはそれでよいことなのかも知れません。けれどもつらさを通してでしか発見できなかった自分の大切な部分もまたあると思うのです。身体が訴えることに耳を傾けてみることは、いままで無視をしてきた自分の使われていない能力や感覚を取り戻す大切なステップとなります。