誰にでも分け隔て無く接したい、差別や区別や好き嫌い無く、誰にでも同じような気分で接したい。誰かにその人が苦手だということを感じ取られたくない、あるいは気に入っていることを気づかれたくない。自分の感じていることは一時のわがままや悪い心から出ていることで、理論的、社会的、習慣的に正しくありたい。しかしその様に行動するためには自分の気持ちを無視しなくてはいけません。
多くの文学作品でも描かれているように、感情はまさにエネルギーであり、自分の大まかな進むべき方向を指し示す羅針盤でもあります。理論的に物事をとらえる能力は、今の時点での選択可能性を抽出して目の前に並べますが、どれを選ぶのかは感情の力を用いる必要があるのです。あるできごとは「自分にとってどうなのだろうか」という感情がなければ、私たちはどこに進むこともできません。
その様に生きていく根本的な能力でもある感情ですが、いろいろな力が感情を表現させないようにしてしまうようです。教育方針、学校の指導、社会の雰囲気、文化の特性、もちろん個性の問題。しかし感情をあまりにも長い時間強い力で表に出すことができなくなってしまったときには、何が「良いことで」何が「悪いこと」なのか。自分がいったい何を望んでいて、何を望んでいないのか、という人間性における根本的な価値観がわからなくなってしまうことが珍しくありません。
このところカウンセリングに来る人たちの中の傾向の一つに、感情を抑圧している・上から押さえつけているというよりも、「切り離してしまっている」という言葉の方があうヒトたちがいます。まるでどこかから何かが出てきて、感情をそっくり持っていってしまった。あるいは不快な気持ちや自分を揺さぶるような気持ちから自然に距離をとってしまっている、その様なことができてしまうヒト達です。論理的に考えるときっと自分は大変なんだろうなと考えることはできるんだけれども、体から沸き上がってくる気持ちを感じることが難しくなってしまっている。揺さぶられることはないけれども、生きているという実感を感じることが難しくなる。その様な苦しさに直面したときにはどのように考えたらよいのでしょうか。