普段は価値観から遠く離れてほしい、評価をできるだけ保留してほしいとお願いをしていますが、
やはり物事を評価することから距離をとるのは難しいものです。私たちは意味の世界でしか生活できない存在ですから、そもそもカウンセラーとしてとても難しいことをお願いしているのだろうなと感じます。特に物事がうまくいかないときや落ち込んでいるとき、あるいは不安や無力感などのネガティブな感情を持っているときには、以前は気にもとめなかったようなことが常に自分がどのくらい悪い存在なのだろうかと考えさせることになるのですから。
多くのヒトたちは、自分から見て物事がうまくいっているときには価値観を気にしないようです。物事がうまくいっていないと感じられるときほど、自分で評価をすることになります。あれができないからだめだ、あの人に迷惑をかけてしまっている。普段健康な時には気にならなくとも、痛みがある時にそこにお腹があることを意識するようにですね。
カウンセラーは、いろいろな状態はあるにせよ「無意味である、無駄である、もう何をしても変わらない、自分だけが悪いのだ」などというのは認知的な言い過ぎがあるのだと考えます。たとえどのような現実的な問題があったとしても、そのつらさをふまえて、より良く生活していくことは可能なのだと信じています。そしてそれは単なる言い聞かせでもなければ現実を無視する考え方でもなく、ただ単にそれは技術的に可能なのだと。したがって上のような考え方には、認知療法的な介入が可能であると判断するのです。
私たちには価値観があることから逃れることはできませんが、その価値観が変わる可能性のあるものであることや他の価値観があるんだろうなと想像することはできます。現実をすぐに変えることができないとしても、価値観と評価は別な見方が常に存在しているのです。現実的なつらさと精神的な落ち込みは決してイコールではありません。つらい思いを持っているヒトたちが、生活していくことがとても重荷で、全く意味を見いだせなくなることがあっても、カウンセラーは変化する可能性を理論的にも、経験的にもただ単に知っているのです。