姿勢と技術は水と水路の関係に似ています。
どれほどたくさんの水があったとしても、それがきちんと流れる道がなければ水はただあふれ出し、コントロールできずにたくさんのものを押し流したり意図したところに流れずに多くの被害を出してしまいます。またどれほど立派な水路があったとしても、そこに流れる水がなければ水路は無用の長物となってしまいます。水のない水路から何かをくみ取ろうとしたり浮かべようとしたりしても何かの役に立つのは難しいでしょう。また、あまりにも強固にできあがっている水路は、水の勢いを殺してしまい、水がどのようにしたらうまく流れるのかよりも、水路にどのように水を合わせるのかを考えてしまうかもしれません。
ロジャーズ先生の考えた「暖かで自分にも他人にも開かれた人」という態度は、ヒトの変化を促す要素は何なのか?何が問題なのか?というところから発見されたものでした。ロジャース先生はよく知られるように、「人間には自分自身を成長させる力がある、ただそれが何かに邪魔をされてうまく出られなくなる時があるのだ。きちんと自分を表現できる場があれば、自分を成長させる力を取り戻すことができて、十二分に生きていくことができるのだ、という立場をとりました。そこで注目した関係性に置いて、誰かが「一貫して暖かで開かれた態度で関わる」ことことによって自分を取り戻すことができるといったのです。
しかし一貫して暖かな姿勢で関わることの壁は予想しているよりも高いものです。役割の背後に隠れることなく、自分自身の気持ちを自分自身が掴むこと、自分自身と対面することはどうやら大きなストレスを人に与えるようなのです。
「良い」ことと「自分が感じていること」は別なものです。意識には上ってこなくとも、痛みやいらいらがあれば体は意識の外でそれを感じます。また意識しなければしないほど、私たちは意識の外にある感情や刺激に引きずられてしまいます。自分の頭をゴンゴンと叩きつけるものがなんなのか気づくことができなければ、それを避けることはできないのです。
温かな態度に自分のエゴをどのように入れていくのか、という問題が常に関係性にはつきまとってしまいます。関係性である限り、それがどのような人であってもちょっとしたこと、その人のことがふと気に入らなくなる。自分が疲れている。いらいらしているということが、自分の持っている価値観が「関わり」では大きな影響を持ってしまうのです。その様なところで情熱だけで人と関わろうとするのはとても危険なことです。技術を伴わない情熱は、自分はこんなにもしてあげているのにという気持ちのすぐ隣にいるのですから。
熱い思いやかかわり続ける姿勢だけでは自分の行動のはかりを持つことができません。暖かな姿勢の方向性を支えるのは技術だったりします。一方エネルギーが無く冷たい方向性だけがあっても前に進むことができません。飽きることなく関わり続けるエネルギーを供給する姿勢と、自分の思いを押しつけるだけに止まらない思いにおぼれないための技術のバランスこそが重要です。